宦官や外戚が政治を牛耳った後漢の和帝のとき、張覇という成都出身の学者がいた。和帝が病没し、ついで殤帝が八ヶ月で没し、安帝が即位したときには侍中(側近の顧問官)を勤めていた。殤帝と安帝の政治の実権は、トウ太后(和帝の皇后)と、その兄のトウ隲が握っていた。飛ぶ鳥も落すそのトウ隲が張覇の名声を聞いて交わりを求めたとき、張覇は逡巡して返事をしなかった。みなは、かれのかたくなさを笑ったが、やがてかれは七十歳で病死した。
その子供に、張楷という者がいた。字を公超といい、やはり「春秋」
古文尚書に通じた学者で、門徒つねに百人を擁し、先代からの夙儒たちがみな門を叩いた。車馬が街を埋め、お伴のものは金魚の糞のようにひきも切らなかった。宦官や皇帝の親戚たちも、かれと往き来できるよう骨を折った。
だが、かれは父のように、それをいやがり、郷里へ戻ってしまった。
司隸(警視総監)が茂才(官吏登用有資格者)に挙げ、長陵の令に任命したが、出仕せず、弘農山中に隠居してしまった。学者がこれにしたがい、その居所は市を成したという。後には華陰山の南についに公超市ができるという有様であった。そうなると、ますます挙用したくなるのが、人情である。重臣たちは何度も賢良方正(官吏登用有資格者)に挙げたが、やはり仕官しなかった。
安帝が没し、次に立った順帝は、とくに河南の伊(長官)に詔を下し、「張楷は行は原憲(孔子の義子の子思)を慕い、操は夷斉(伯夷と叔斉)に擬す。……」と激賞し、礼をもって迎えさせたが、張楷はこのときも病気を理由に出仕しなかったのである。
ところで、張楷は学問ばかりでなく、道術も好み、能く「五里霧を作したつまり方術で五里も続く霧を起したという。当時、関西の人で裴優というものも方術を使って三里にわたる霧を起したが、張楷が五里の霧を起すと聞いて学びたいと思ったが、張楷は姿をかくして会わなかった。こうして「五里霧」ということばが生れたのである。五里霧中ということばは、この「五里霧」+「中」であって、はじめから「中」がついていたわけではない。
五里も続く深い霧の中にまよいこめば、東も西も皆目わからなくなってしまう、どうしたらよいかわからず困っている、そういういみに使われるが、要するに物事の方針の見込みがたたぬこととか、心が迷って途方にくれる、ということの譬えに用いられるわけである。
黄帝が指南車を作って霧の中で方角を知り敵を破ったという話の伝わる中国にふさわしい故事だが、むろん真実のほどはわからない。
因みに、安帝が没し、次の冲帝が三ヶ月で没し、質帝が立ったとき、裴優が霧を起して悪事を働き、それが発覚してとらわられたとき、張楷に術を学んだと言ったため、張楷はまきぞえを食って、にねん間獄につながれた。獄中でかれは経籍を読み、尚書の中を作っていた。のちに事実無根と判明して釈放されたのち、質帝の次に即位した桓帝の建和三年再び詔が下って招聘されたが、やはり病気を理由に仕官せず、七十歳で死んだ。獄につながれたときは、さぞ?五里霧中?だったことだろう。
五里霧中の次に迷うと加えて言うことも多い。